

私の目論見はうまく行きました。高校卒業を待って、大阪の叔父を頼って家を出ることに成功した私は、叔父の支援の下、関西を基盤に生活を始め、やがてやさしい妻と子どもにも恵まれました。それでも血は争えないものですね。その頃、故郷では材木店から建築会社へとシフトしていたのですが、私は戻らないと言いつつも、夜学に通って建築の勉強をしていました。いま思えば、祖父や父から受け継いだ技術者としての生き方が、無意識のうちに自分を動かしていたのかもしれません。
そんなある日、叔父から連絡がありました。この叔父は、終始私のよき理解者であり、独立する時にも後押ししてくれた人です。その人から告げられたのは、父の体が病魔に蝕まれているという事実でした。
「元和、おまえ、家に戻ってやってくれ」 真剣な叔父の言葉に、私は父の命が長くはないことを悟りました。そしてこの叔父に言われた以上、選択の余地はないと思いました。
こうして私は3代目として、阿下喜に帰ってくることになりました。
私が生まれ育った阿下喜の地は、養老山地から流れる2つの川の合流地点にあり、古代から人が住み栄えたところです。 阿下喜という変わった地名は、もともと「上木」だったという説があり、ひのきの大木が生い茂り、材木を献上したことに因んでいるとも言われています。
ここで私の祖父は、裸一貫から事業を興しました。幼い時に労働力として桶屋に貰われた祖父は、一生懸命働いて元手を貯めて山林を買い、材木店を始めたのです。店の名は自分の名前「勝藏」の、「か」の字をとって「マルカ」。大正3年のことでした。 非常に厳しい人だったようですが、私にとってはとても甘いおじいちゃんでした。朝出かける祖父のゲートルを巻いて、お小遣いを貰っていたのが楽しい思い出です。
ものごころつくと、父に連れられて山に入るようになりました。私はこの山行きが嫌で嫌でたまりませんでした。父が動き回る間、私はじっと山の中で一人、待っていなくてはなりません。聞こえるのは蝉の声だけ。どれほど心細く、さびしかったことか!やっとのことで父が戻ってくると、今度は手伝いです。子どもの小さな手で大きな材木を扱うのは、とてもつらい作業でした。「ぜったいにこの仕事は継がないぞ」。私はそう固く心に誓っていました。
祖父が残した檜林に佇むマルカ三代目・近藤元和